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“Setouchi Triennale 2016” Aichi Prefectural University of Fine Arts and Music Setouchi Art Project Teem, megijima, Kagawa

 

 

 

 

 

 

    奇妙な現在-Odd Present

 

 

逃亡<義務・束縛・逮捕を避けて逃げること>

湿気を含んだコンクリートの表面は白と黒の配色で奇妙な図形を作り出していた。その背後には大型クレーン車が蛇の頭のように首を動かしている。オートバイはイエローライトの光を発しながら、透明な排気音を空間に響かせ、濡れたアスファルトの表面をスピードを加速しながら眼前から消えていく。風に吹き寄せ集められた広告の紙片、正確には判別の難しいビニール製品、それらは至る所でかすかな色彩を発していた。

赤・青・黄・緑・オレンジ

色彩は確実にブルーグレーの中で発光し欲動していた。これこそファンタジーであり、そして幻影である。イリュージョンでもなければ幻想でもない、むしろ現実である。それは欲望そのものであり、生成する生きものである。

観念のすべては崩れ 思考の安全性と安定性は失われ 時空は無気味で不安定な状態に変貌し 行くべき場所も 時間も失なわれ 全身が痛み 空気はナマリのように重く 肉体は波打つ地上に圧縮され 世界がまるで病気になった日の夢を見ているようだ またしても通行不可能 その場にいる 遠ざかってから 当惑して立ち止まる ニ歩引き返し ふたたび遠ざかっていく 目と耳と皮膚の裏切り 膝はある位置から他の位置の状態へと移動する 腕は力無く下へ伸びて 震えている 体はブルーグレーの色彩に覆われ リビドーは過剰に上昇している ロボットの顔面のように軋む音を出しながら上空を見上げる 顔に目は無かった この欲望のジャングル〈現実〉を渉る以外に道が無い以上 見ること 聞くこと 食べる 笑う 話す タバコを吸う 感じる 生殖する 書く 呼吸する 痛を覚える 出血する 震える 怒る 苦しむ 叫ぶ 眠る 待つそれをやる意外逃れる方法は無い 愛するふりをしても もしかしたら愛する これらすべてのことを たとえ無駄骨であっても行うこと 鋭利な刃物を持ち 脱出不能のジャングルを切り拓いていくことだ 途方もない生物に変身しても また名付けようにも名付けられない怪物に変貌したとしても その体のままに機能し それを刃物として欲動する機械のように混沌とした欲望のジャングルの中を蠢く身体となって切り拓いていくのだ

真青な空 真青な海 真青な風景 服をきたまま海の中へ走り込む 走っても 走っても遠浅の海
水の中を覗く おもしろい 足が揺れ動いている 前へ行ったり 後ろへ行ったり 私は足を真直ぐにしているつもりだけど
笑われないようなものには道としての価値がない。

我々は冗談を理解した瞬間、悟りを体験する。 (老子)

 

 

  EBEはどこから来たのか-倉重光則の跳躍      吉岡まさみ

 高松港からフェリーに20分乗ると女木島に到着する。瀬戸内海の小さな島で、めぎじまと読む。2015年の10月にわたしは倉重光則の新作を見るために女木島に降り立った。
 桟橋から歩いてすぐのところに女木ハウスがある。女木ハウスというのは、愛知県立芸術大学が運営する施設で、年間を通して、コンサートや美術展などのイベントが学生を巻き込んで大学が企画をしているものである。古民家を改装した建物があり、屋外にはステージが設えてある。板敷きの観客席は100人以上の収容能力がありそうである。

 

 

 倉重の作品は、その板敷きの観客席の一角に設置されていた。

 鉄板で作られた塔が建っている。塔といっても中は空洞である。高さは6.7m、底辺は65×65cmの正方形である。天井は開いているので、ちょっとした煙突ということができる。痩せたサンタクロースならプレゼントを持って通り抜けられそうである。サンタクロースが降りてきたところに出口があるわけだが、これは40cm四方程度の大きさなので、通り抜けるのに難渋しそうではある。出口は対面に2箇所ある。観客はこの穴に頭を突っ込み、横たわりながら煙突の四角い穴から空を眺めるという仕掛けである。

 実際に板敷きのステージに寝転んで頭を「出口」に入れて上を見上げると、まぶしい青空が正方形に切り取られ、雲が流れていく様は映像を見ているようだ。

倉重は「夜はもっといいよ」という。 

 何も見えないんじゃないの?とわたしが訊くと
 「真っ暗闇が見えるんだよ。それがすごくいい」と答えるのだった。

 さて、作品はこの「塔」だけなのかというと、実はもうひとつ「付属品」がついている。

 それは人体を模した彫刻作品である。倉重はこの人型を「人形」と呼んでいるが、人体をリアルに作りこみ、型取りをし、プラスチックを流し込んで作ったこの作品はどう見ても彫刻なのである。この人体彫刻は、横たえられて、二つある出口のひとつにその頭を差し込まれている。真っ白な人体は、男でも女でもない。見ようによっては死体である。
 倉重がこの「人形」を設置したのは、当初、こういうふうに頭を入れて空を見てくださいと、鑑賞の仕方を示すために作ろうとしたらしい。この人形と同じ姿勢になってくださいという、いわば「取扱説明書の挿絵」の役割をこの人形に負わせようとしていたらしいのだ。

 しかし、実際に作って、会場に置いてみると、その「人形」は思いのほか存在感があり、「付属品」には思えなくなった、というのが本当のところではないかとわたしは考えている。その存在感はあまりにも異様で強烈なので、誰もこれを見て、ああ、こういうふうに見るんですね、と了解する人はいないだろう。「人形」は「取扱説明書の挿絵」の働きをしていないのだ。それどころか、本来の作品である「塔」の存在が霞んでしまいそうなほどにその形は異彩を放っている。夜になると、この「人形」はさらにその異様さを増幅させる。この人形の中にはネオンが仕込んである。夜になり、電源を入れるとネオンの青い光が人形の内部から放たれる。女木島の夜は街灯もほとんどないので、本当に真っ暗である。その闇の中に「人形」が光をまとって浮かび上がる。これも予想外だったと思われるのだが、ネオンの光は人形の形を消失させてしまうほど強烈で、思わず「眩しい!」と叫んでしまうほどなのである。

 

 

  さて、この作品をどういうふうに見ればいいのかという問題にとりかからなければならない。わたしはここで作品の内容について事細かに解説をしようとは思っていない。作品そのものよりも、それを作った倉重光則の思考法、あるいは起こり来る事態に対する対処法を見ていくことで、つまり、倉重という人物に焦点を合わせることで、作品を外側から検分していこうと考えているのだ。

 そもそも、正方形という形にこだわり、光という「素材」を生かしながら、幾何学的な世界を通してその世界観を表現してきた倉重が、いとも簡単に、人体の形をした彫刻を作り始めたというその柔軟性とイメージの跳躍力に驚かされる。なぜ彫刻を作ったのか。その理由はここでは考えないでおこう。幾何学的な抽象から具象的な立体への移行が、いとも簡単に実行されたという事実のほうが今は重要である。倉重はこういうことを平気でやるのだ。不良である。富岡多恵子の言葉を借りれば「踏み外した」のである。不良だからこそ彫刻へ飛び跳ねることができたのである。真面目な「良い子」にはその跳躍力は期待できない。
 
 倉重はこの「人形」にEBEと命名した。これは、extraterrestrial biological entityの略で、地球外生命体という意味だそうだ。イーバと読む。宇宙人のことである。倉重の作品EBEは予定外のところから突然に現れたという点で宇宙人と同じである。

 当初、この宇宙人は、倉重の「塔」の作品の付属物であり「取扱説明書の挿絵」であるとわたしは書いた。しかし、この宇宙人は付属物を通り越して、メインの作品になるような迫力を身につけてしまった。これは倉重にとって予定外のことだったろうと想像できる。真面目な作家から見たら、予定外=失敗である。ある意味で、この宇宙人は倉重の「塔」の作品を壊しかねない存在になってしまったということができる。おそらくこの真面目な作家は、失敗を看過することができずに、作品に変更を加えるか、始めから作り直すに違いないのだが、倉重はここでも驚くべき跳躍をするのである。すなわち、失敗は失敗のままで放置する。そして、作品に手を加えるのではなくて、考え方を方向転換させていくのだ。すなわち、このEBEは付属品ではなく、メインの作品である、と認め直すのである。そこから新しい展開が始まるのだ、ということを不良ならではの嗅覚で感知するのだ。これは考え方の柔軟性というのとは違う。柔軟性というよりは、無鉄砲、あるいは思い切りの良さなのである。踏み外しである。

 倉重は人生そのものを賭けてしまっているので、いざというときにはこういう「賭け」に出るのである。

 女木島では横になっていたEBEは、Steps Galleryでは立ち上がり、壁に掛けられる。「塔」の天井に見えていた正方形の青空と夜の暗闇は、ギャラリーの壁にドローイングとして表現されることになる。女木島での作品の主客はここで完全に逆転することになる。この逆転こそが倉重の跳躍であり賭けの様態である。

「われわれの悪をわれわれの善と言い換える」と言ったニーチェの言葉が脳裏をよぎる。

 われわれは倉重の賭けをどう見るのだろうか。それは、大袈裟に言えば、われわれの考え方と生き方を見直す契機となるだろう。EBEはどこから来たのだろうか。   (よしおかまさみ/美術家・Steps Gallery 代表)

 

 

 

愛知県立芸術大学瀬戸内アートプロジェクトチーム

Aichi Prefectual University of Fine Arts and Music Setouchi Art Project Teem

 

 

水の塔

ブルーグレーの時空に際立って、高く聳えたっている水の塔、その回りを無数に落ちる落下植物、それは逆さまにした人間の姿に似ている。全身の皮膚は肉厚で、のっぺりとした多肉植物のようにも見える。欲望が上昇している。さらに顔面も上昇する。地上に光と熱を与え、万物を育む発光体と交差する飛行物体は燃えながら、さらに上昇していく。爆音は大気を震わせ、空間に波動の波を刻み付けている。反射する光線は多様な角度を生産しながら、地上を狙って乱舞し、発光する。

 

イメージの崩壊は眼前にある

物質的な物として、安全という意味の名の下に従属してきた物質たち、彼等はもはや正体を隠そうとはしない。ゆっくり、確実な、歩行で姿を現してくる。散乱する事物によって引き起こされる空虚と内実、それは意識と同時的なものとして、欲動しつつ生成している。昼ともなく、夜ともなく、静かなブルーグレーの色彩に覆われた時空の中で事物は事物であることを主張し始めている。

 

 

 

 

  

“Setouchi Triennale 2016” Aichi Prefectural University of Fine Arts and Music Setouchi Art Project Teem, megijima,

 

 

 

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